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平林寺大河内松平家廟所 文化財修復工事

 

平林寺大河内松平家廟所 文化財修復工事
平林寺大河内松平家廟所 文化財修復工事 墓域は約3000坪を有し、歴代の墓は約170墓にものぼります。長い歳月で破損した、お墓や外柵などの大がかりな修復、通路などの整備工事を平成十年より七年をかけ弊社が担当させていただき、無事完成いたしました。
今から約600年前、岩槻(埼玉県)に岩槻城主太田道真(道灌の父)が創建しました。その後、江戸前期に川越城主、松平信綱・輝綱父子によって現在の埼玉県新座市野火止の地に移され、大河内松平家歴代の廟所となりました。一寺に一大名の墓がこれだけ残っているのは、全国でもあまり例がありません。
こうした中、お墓や柵の多くが1923年(大正12年)の関東大震災で倒れ、仮修復されただけで今日まで至りました。長い歳月で再び倒れる可能性もある柵などが出てきたため、修復工事と通路などの整備を進めることになりました。
 


 

平林寺大河内松平家廟所 文化財修復工事
川越藩政においても武蔵野新田開発や野火止用水の開削など多くの功績を残した信綱。 新座市の「宝」として、歴史を損なわず、墓石・外柵など、大切に補修・修復工事を行いました。
松平信綱は、徳川家光・家綱の二代にわたって老中をつとめた江戸時代の大名です。父は大河内久綱。叔父である松平正綱の養子となり、松平姓を称し、幼少の頃より才知に富み、官職から「知恵伊豆」と称され、島原の乱鎮圧や明暦の大火後の江戸復興などで活躍した、家光・家綱時代を支えた名老中でした。
お墓は、向かって左の五輪塔が信綱、右が正室の五輪塔です。いずれも、高さ2メートルはある堂々とした本小松の五輪塔で、県の史跡に指定されています。

 

1:基礎
外柵、灯籠、内柵、五輪塔などを細かく順番付けし、各箇所ごとに写真と図面で記録を残し、撤去する。
砕石を引き上から天圧かけ、鉄筋を配筋して、通常の2倍の厚みでコンクリートを打つ。
1:基礎
 
2:外柵
基礎工事後に写真と元図で確認を取りながら元の位置に据え付ける。
ダボを入れ補強し、駒寄せ仕上げにて組み立てる。
2:外柵
 
3:参道
既存の石を使用し、できるかぎり凹凸のでない状態で仕上げる。
3:参道
 
4:階段・門
ゆがみ、ひずみが有った物を調整し元に据える。
門は扉の開閉を調整し、ぐらつきを無くし、門柱は強度を強くする為下部をコンクリートで補強する。
4:階段・門
 
5:五輪塔
下段まで撤去し基礎を打ち直して正確な位置に水平などを注意しながら改めて、据え直す。
5:五輪塔
 

 


 
廟所に入ると、歴代の墓はいずれも豪壮な墓石によって造られ、歴史を刻んだ五輪塔が整然と建っています。
本道から廟所への参道は、古くて傷んだ石畳から新しくアーチ加工した雨の日でも水が溜まらないよう整備し、俗に座禅灯篭と呼ばれる基部の太い、武家好みの石灯篭は参道の左右に移動・補修して並立し、崇高な雰囲気を崩すことなく整備しています。
参道正面が信綱の実祖父である大河内秀綱のお墓になります。右隣には信綱の実父である大河内久綱の五輪塔があります。その右は信綱以下、大河内松平家の直系にあたる伊豆守歴代の墓石群が建ち並びます。また、養父正綱の墓の後ろには正綱の嫡子である正信以下の大多喜家歴代の墓石群が建ち並び、さらにその左後方には信綱の五男、信興をはじめとする右京大夫家歴代の墓石群が建ち並びます。
これまでの歳月で、お墓にヒビなど傷が入り、外柵や灯篭は傾き崩れるほどになっていました。今回の修復では、土台から掘り起こし整地して建てなおすなど、当時の面影をくずさずに「宝を守る」姿勢で修復工事をしました。
 

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